子曰く「女子と小人は養い難し」・孔子の本意を探る
2019/04/19 16:45|コメント:0件
前稿で「女子と小人は養い難し」を母子関係と捉えた理由を示す。
原文は、子曰・唯女子與小人爲難養也。近之則不遜、遠之則怨。
訳文として、ただ女と小人(狭量の人間)は扱いが難しい。近づければ図に乗るし、遠ざければ怨まれる。
以上の訳文が一般的である。
しかし信条が、己の欲せざるところ人に施すなかれ、に代表される人間愛あふれる精神の孔子である。
それなのに弟子が、師匠である孔子の人間愛が微塵も感じられない警句を、後世に残すはずがない。
この訳文はどう考えても不可解であり、浅学菲才の身ながら客観的事実・・を基に新たな見解を示したい。
まず、文字列の漢字、「養」「唯」「與」「則」に注目したい。
①「養」とは羊を食うと書くので、扱いとか教育ではなく、文字通り飯を食わせる、則ち、扶養の意味ではないか。
一般的に扶養されるのは妻と子であり、義務が生じるのは夫である。
②「唯」を「ただ」と訳せば、「殊更に言う程でもないが」か「覚えていてほしいが」、辺りであろうか。
人口の半数を占める女子と、君子の対語を小人とすれば、該当者は全人口の大半に及ぶ、それが唯(ただ)の文字では軽すぎる。
③與の文字は「○○と○○」であり、人間愛に根差した合理主義の孔子が、女子(女性)と小人(狭量な人間)を乱暴に一括りする事はあり得ず、もっと詳細に分類するだろう。
「與」は「輿車」などを意味する臼偏から読み解くと、「女子と小人」は一体性を有する関係を表してると考えたい。
④則は規則など決定事項、あるいは論理から導かれる答え「則ち○○である」と断定する用法である。
ここでは、「近」の場合は不遜、「遠」の場合は怨と断定してる。
だが、「近」「遠」の作用を受ける「女子と小人」に、「不遜」「怨」の反応を示すと決めつける事は出来ない。
「遠」の作用を受けて嬉々とする「女子と小人」もいるだろうし、「近」の作用を受けて殊勝になる「女子と小人」もいるであろう。
これを、近づく遠ざかるは孔子の方で、「女子と小人」を孔子の「妻と子供」に読み替えると、孔子の体験に基づく話になるので、断言する事が出来る。
⑤小人には子供の意味もある。
次に、子を持つ母の立場に立って考えると、
神から種の保存を託された女子は、一生で数人程度しか子を産めないので失敗は許されない。
母親となった女子は、まず子供を無事に育て上げる事、そして子供の将来を決める10代前半迄の競争時代を、子と一体となって生き抜かなければならない。
つまり、母にとって子育ては絶対に負けられない戦争であり、母性本能に合理精神は存在しない。
さて、
戦時モードに突入した妻が、仕事オンリーの夫に見せる態度は推して知るべし。
特に孔子の場合「己の欲せざるところ、人に施すなかれ」を信条とするので、妻と子の態度は我慢できなかったかもしれない。
以上の事柄から、冒頭の「子曰く」の訳文は、
先生が言うには、一般論として妻と子供を養っていくには大変な苦労を強いられる・我が家に機嫌取りに帰れば嵩に掛かってくるし、家に帰らないと帰らないでブツブツ言われる。
この理由は、極めつけの仕事人間の孔子は、仕事優先であまり家には帰らなかったような気がする。
真偽の方はどうだろうか・・
原文は、子曰・唯女子與小人爲難養也。近之則不遜、遠之則怨。
訳文として、ただ女と小人(狭量の人間)は扱いが難しい。近づければ図に乗るし、遠ざければ怨まれる。
以上の訳文が一般的である。
しかし信条が、己の欲せざるところ人に施すなかれ、に代表される人間愛あふれる精神の孔子である。
それなのに弟子が、師匠である孔子の人間愛が微塵も感じられない警句を、後世に残すはずがない。
この訳文はどう考えても不可解であり、浅学菲才の身ながら客観的事実・・を基に新たな見解を示したい。
まず、文字列の漢字、「養」「唯」「與」「則」に注目したい。
①「養」とは羊を食うと書くので、扱いとか教育ではなく、文字通り飯を食わせる、則ち、扶養の意味ではないか。
一般的に扶養されるのは妻と子であり、義務が生じるのは夫である。
②「唯」を「ただ」と訳せば、「殊更に言う程でもないが」か「覚えていてほしいが」、辺りであろうか。
人口の半数を占める女子と、君子の対語を小人とすれば、該当者は全人口の大半に及ぶ、それが唯(ただ)の文字では軽すぎる。
③與の文字は「○○と○○」であり、人間愛に根差した合理主義の孔子が、女子(女性)と小人(狭量な人間)を乱暴に一括りする事はあり得ず、もっと詳細に分類するだろう。
「與」は「輿車」などを意味する臼偏から読み解くと、「女子と小人」は一体性を有する関係を表してると考えたい。
④則は規則など決定事項、あるいは論理から導かれる答え「則ち○○である」と断定する用法である。
ここでは、「近」の場合は不遜、「遠」の場合は怨と断定してる。
だが、「近」「遠」の作用を受ける「女子と小人」に、「不遜」「怨」の反応を示すと決めつける事は出来ない。
「遠」の作用を受けて嬉々とする「女子と小人」もいるだろうし、「近」の作用を受けて殊勝になる「女子と小人」もいるであろう。
これを、近づく遠ざかるは孔子の方で、「女子と小人」を孔子の「妻と子供」に読み替えると、孔子の体験に基づく話になるので、断言する事が出来る。
⑤小人には子供の意味もある。
次に、子を持つ母の立場に立って考えると、
神から種の保存を託された女子は、一生で数人程度しか子を産めないので失敗は許されない。
母親となった女子は、まず子供を無事に育て上げる事、そして子供の将来を決める10代前半迄の競争時代を、子と一体となって生き抜かなければならない。
つまり、母にとって子育ては絶対に負けられない戦争であり、母性本能に合理精神は存在しない。
さて、
戦時モードに突入した妻が、仕事オンリーの夫に見せる態度は推して知るべし。
特に孔子の場合「己の欲せざるところ、人に施すなかれ」を信条とするので、妻と子の態度は我慢できなかったかもしれない。
以上の事柄から、冒頭の「子曰く」の訳文は、
先生が言うには、一般論として妻と子供を養っていくには大変な苦労を強いられる・我が家に機嫌取りに帰れば嵩に掛かってくるし、家に帰らないと帰らないでブツブツ言われる。
この理由は、極めつけの仕事人間の孔子は、仕事優先であまり家には帰らなかったような気がする。
真偽の方はどうだろうか・・